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よろず見聞録7Experience & knowledge

7)東洋のマチュピチュ・別子銅山(東平)

 近年、別子銅山の東平地区は東洋のマチュピチュと呼ばれている。過日(3月20日)、新居浜市のマイントピア別子から足を延ばして東平地区を訪れた。       

東平案内図

(現地案内板に   貯鉱庫跡追記)
    

貯鉱庫跡

(2013.3.20撮影) 側方より

貯鉱庫跡

(2013.3.20撮影) 上方より
    

1955年頃の  貯鉱庫

(2013.3.20撮影  現地説明板)
 別子銅山(愛媛県)は、足尾銅山(栃木県)・日立銅山(茨城県)と並んで、日本三大銅山の一つに数えられる。1690年、渡り坑夫・切り上がり長兵衛が天領であった別子山村で“やけ”(銅鉱床の露頭)を発見し、備中吉岡銅山の住友家支配人・田向重右衛門に通報したといわれている。翌1691年に別子銅山は開坑され、最初の坑口が「歓喜坑」と名付けられた。その後、1973年の閉山まで283年間、銅の採掘事業は続けられたが、採鉱環境や銅精錬に伴う煙害など多くの問題を克服しながらの苦難の歴史でもあった。
  明治維新政府に住友による鉱山経営が国益に寄与することを説いた別子銅山支配人・広瀬宰平は銅山の近代化に積極的に取り組み、1874年にはフランス人鉱山技師のルイ・ラロックを雇い、全山調査を行い、「別子銅山目論見書」を完成させた。海抜1300mの山を越え、斜めに深く長く帯状に貫く鉱床は、世界でも稀な大鉱床といわれる。別子銅山は1691年から1973年の閉山までの283年の間に、推定で約65万トンの銅を産出した。この間、掘りつづけた坑道の延長距離は約700km。採鉱場所も海面下約1020mに達した。そして、坑道深化による地熱の上昇(52℃)と地圧による坑道の崩壊などの危険性が生じたため1973年に採掘を中止した。
 別子山村は、愛媛県宇摩郡にあった村である。2003年4月1日に、隣接する新居浜市に編入合併され、単独自治体としての別子山村は消滅した。別子山村は銅山で栄え、一時は人口も12400人を数えたが、採鉱の中心が新居浜側に移ると人口は激減し、静かな村に戻った。                              (2013.3.28)